2011年10月27日

佐々木敦『即興の解体/懐胎』

即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア [単行本] / 佐々木敦 (著); 青土社 (刊)
まだ途中。
読みやすいとはいえん。タフ。
が、おもしろい。
ここらへん、いずれはちゃんと考えなくちゃいけないなぁと思っていたことを考えてくれている。
ありがたい。
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2010年02月11日

『太陽を曳く馬』(高村薫)より引用

「それはまさに足跡そのもので,ほんの少し前に君がそこにいたことを数秒遅れて私が知るのです。一寸ハッとするような,気が急くような,何かを失ったような心地とともに,そのとき私が見ていたのは,数秒前にあっていまは無い何者かの存在−−否,在ろうが無かろうが,正確にはふだんの身体感覚にふいに触れてくる他者という異物であり,それによって新たになる私自身の存在の感覚だったというべきでしょうか。
 この眼に見えること,耳に聞こえること,身体に感じられることが直に運んでくる世界や他者の,こうした唐突な立ち現れは,何より私に,この私がいまここに在ることを知らせるものです。」
新仮名遣いに変更している。
posted by doino at 10:54| 鹿児島 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月08日

東野圭吾どうよ

鹿児島旅行中に観た映画「容疑者Xの献身」が意外におもしろく、原作者東野圭吾の小説を3本立て続けに読んだ。「容疑者Xの献身」「悪意」「同級生」。
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2008年02月26日

ドストエフスキー・シリーズ

『カラマーゾフの兄弟』を最初に読んだら面白かった。
意外にも,いろんなほころび,決着がつかずにほったらかしされている事柄が多くあるように思え,そこがなにより面白かった。出てくる言葉も唸らせるものが少なくない。全体を貫く一種の透徹さが肌に合う。
『カラマーゾフ』の話を五月さんにしていたら「『ジョバンニの部屋』みたい」と言われて,そー言われればその通りだと思い『ジョバンニの部屋』(これはボールドウィン)を再読した。これは,10年くらい前かなりショックを受けた本(芝居にも引用したことがある)だが,最初に読んだときとはまた違った感想を持った。これはまたいずれ。
次に『悪霊』にかかったが主人公に興味を持てずに上巻の半分ほどで放棄した。
次に『罪と罰』を読んだらそこそこに。これはもっと若いときに読んだらよかったかなぁ。
ドストエフスキー・シリーズってことだと次は『白痴』ですかね…。
しかしひとことに神っていったっていろいろあるだろうにドストエフスキーにしてみればキリスト教の神以外は考察の対象にすらなりえない。
ほんとに西洋の人はご苦労なことだよ。
ラベル:ネタ
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2006年09月26日

いしいしんじ『ぶらんこ乗り』

ぶらんこ乗りこれはよかった手(チョキ)
甘いといえば甘いし,ちょっと盛り込み過ぎなのが気になるけど,それでも子供の抱えている孤独や恐怖がよく書けていると思う。このあたりのセンスが「プラネタリウムのふたご」では見えなくなってる。それはなぜ?
動物をめぐるエピソードはなかなか興味深いっす。ペットとしての動物でなくて,異生物としての理解不能な感じが出てて。
せっかくなので「麦踏みクーツェ」も読むか。
ブログも有名らしいが怖くて見てない。
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2006年09月18日

いしいしんじ『プラネタリウムのふたご』

プラネタリウムのふたご物語の作り手としては上手い。
物語の中,大きな事件は起こっているのに,(わたしには)なにかがかったるい。なにかが退屈。鎮守の森みたいのが破壊されるとかっていう社会的危機もあるのだが,ナントナク回避されていく。末梢神経的に迫り上げるということをたぶん意識的に避けているんだろうと思う。
痛みがぼやけていて,宇宙の時間を俯瞰したノンビリ感が立つ。
これは好き嫌いの問題だけど,わたしとしては鋭い痛みを持ったものの方が。…これは実存主義の弊害かな。≫次の版で直して欲しい
posted by doino at 17:12| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月10日

肩胛骨は翼のなごり

肩胛骨は翼のなごり肩胛骨は翼のなごり/デイヴィッド・アーモンド
となりのトトロ。読ませるし,悪くはない。けど,軽い。
訳者あとがきによるとマルケスにも影響を受けている作家だというのだが,それを読んじゃうとますますこの汚い,さえない天使というネタがかすんで見える。マルケスの短編に出てくる天使そっくりだし,しかしマルケスのとは違って人間の言葉をしゃべったり中華料理が好物だったり子供と踊ったりして俗っぽいんだよねぇ。
おっさんの天使の背中,翼のあるあたり(肩胛骨)を子供が触るシーンがあるんだけど,なんかあっさり流されてる。このときの緊張,恐怖感を意識的に薄めているのか,それとも作者がそのことを想像できないのか。
「人間に似ていてしかし別の生物」というものの不気味さ,理解不能みたいのを無視してしまっちゃなぁ。それが子供の本の条件…と作者は考えてる?
posted by doino at 12:38| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月14日

高村薫『新リア王』

新リア王原子力がらみの青森の歴史や,若い世代の政治家や官僚…竹中とか阿倍くらいか…の持っている思想背景の描出とか,重い。高村薫は「嫌でも読む」。それは義務。「次世代」と言われる政治家が構造主義の影響を受けていて,そしてそれに付随しかつそれに隠すように底に持っているニヒリズムや人間蔑視。これには心底吐き気がする。だが,ひるがえって自分が主人公=榮のような旧世代のセンスに基盤を置いているのかといえば全然そうじゃない。わたしの中にもどこか主人公の息子たちに似た感じ方があることにいまさらながらに気づかされる。もうひとりの主人公である彰之はいわば「次世代の世捨人」だが彼の中にも同じくニヒリズムや人間蔑視が泡を立ててる。…うー,ほんと嫌なことに気づかせてくれる作家だ。
posted by doino at 03:02| 埼玉 🌁| Comment(1) | TrackBack(3) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月01日

コルテス

コルテス戯曲選。これは面白い本だ。どうどう巡りの幸せでも不幸でもない,楽しいのでもなく楽しくないのでもない百年一日のような停滞の時間を生きている。それを対象化するのは「外部」の視線だなぁ。どんな時代でもそれはそうか。外部の視線を対象化として捉えるのは内部の者なんだ。ただ,この時,そこで得られるのは痛みなんだろう。痛みこそがわたしの輪郭を見いださせる。
ラベル:コルテス ネタ
posted by doino at 04:20| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

夷狄を待ちながら/クッツェー

夷狄を待ちながら夷狄(「いてき」と読むのだよ)を待ちながら/クッツェー
「Waiting for the Barbarians」と原題にあるから,訳者が意図的に「ゴドーを待ちながら」にかけたわけではなく,作者自身がそうだったのかも。
この作者はこのほかに「敵あるいはフォー」「恥辱」を読んだ。
クッツェーって,何がどう面白いって言えない。全然エンタメじゃない…大江健三郎ほどにも…から,誰にもおすすめできるって代物じゃない。進みがのろくって苛々しながら,でもなんか気になる。
迷宮っぽいところはカフカにも似てなくはないが,クッツェーは戯画的ではなく,心理的,内向的,告白っぽいところもある。(「恥辱」はこの告白っぽいところが強く出ていてわたしには合わなかった。)
真綿で首を…じゃないけど,つかみどころがないものにじわじわと浸食されてくる。
posted by doino at 02:07| 埼玉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月05日

ブルック再読

ブルック『なにもない空間』

学生時代に読んだきり,うちの背表紙界の一員にすぎなかったが,ふとタイトルが目にとまり(ってずっと見てたろ),再読中。1968年に書かれ1971年に翻訳初版の本だが,なかなかどうして,次のような文言に会うと,どきどきしてくる。
たとえば、舞台は舞台である、という前提を立てる。すなわち、舞台とは小説の舞台化、詩や物語や講演の舞台化のための便宜的な場ではないという前提から出発する。そうすれば、この舞台の上で話される言葉は、その言葉が一定の条件のもとで舞台上にいかなる緊張を作り出すかによって、またそれによってのみ、実在もするし消えうせもすることになる。
あるいは
安定して調和のとれた社会なら,その調和を演劇の中に反映させ再認識するための方法を探しさせすればいいわけかもしれない。そういう演劇なら,俳優たちと観客を,互いに呼びかわす<肯定(イエス)>のうちに統一することをめざせばよかろう。だが,混沌のうちに変わりゆく世界にとっては,偽物くさい<肯定(イエス)>をさしだす劇場と,強烈な挑戦によって観客をきれぎれの,しかし生き生きとした<否定(ノー)>へと粉砕する劇場と−−この二つに一つを選びとる道しか残されていないのだ。
かつてはあまりにアタリマエに,そしていくらか意味が広すぎると思えたこんな言葉を新鮮に感じ,背筋が伸び,勇気づけられるように感じる自分。逆にいまの演劇をとりまく状況の歪小さを思い知らされもする。
このころからモンダイは全然変わっちゃいないんだよ!と。答え方は違って当然だけど,これは出発でありいわば「志」。

読んだことのない『秘密は何もない』(これもタイトルがええねー)も注文しちゃったー
ラベル:ブルック ネタ
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2005年10月30日

だめだこりゃ

ドナウよ、静かに流れよドナウよ、静かに流れよ/大崎善生

「虚飾」の一言。
いらん装飾がいっぱいの文体。いらんエピソードもりだくさん。上滑りの個人感情もりだくさん。付け焼き刃が透けて見える半端な知識もりだくさん。
興味深い事件だと思うが,それをもってこれでは×。

知識として唯一おもしろかったのは,ルーマニアの交響楽団を率いる日本人指揮者=尾崎晋也氏のくだり。
この人は,
 たとえば日本ではとてもではないがオーケストラの前に立てないようなバイオリニストやピアニストをルーマニアに連れていき、自分の交響楽団のソリストとして演奏させ、コンサートを開かせたりCDを録音したりして、なにがしかのお金をいただくのである。つまり、日本や西欧では絶対にできない、演奏家の長年の夢を叶えてやるのだ。
という。
「演奏家の長年の夢」だけでなく,クラシックの素人に対するハク付けにする場合も多そうだ(というようなことをこの作者はことごとく「見逃す」)が,なにせ二流三流の演奏家の虚勢に一役買うことで「貧しいルーマニアのオーケストラ七、八十人をそれによって食わせているのである。…尾崎はトゥルグ・ムレシュ市の名誉市民の称号を与えられている」。
なるなるー。作者が実際に会った尾崎氏のくだりもなかなか興味深い。
ルーマニアと日本の関係の一側面やあるいはクラシック音楽界の裏側が垣間見える。ちょっと興味がわく。
ラベル:だめだこりゃ
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2005年10月24日

サーカス−そこに生きる人々−

ルポルタージュ,文学,歴史書,思想書,フランスサーカス案内…そのいずれでもあっていずれでもない。
何度か紹介している森田裕子さんのサーカス本のうちの一冊。
これは『内側の時間』よりも前に書かれたもの。おもに「サーカス・アート国立センター」の学校にいた時に会った人々について書いてある。
『内側の時間』よりも読みやすい。へもさんが「こっちは入門書かな」と言っていた通り。あくまでも「そこに生きる人々」に焦点をあてて書かれていて,その中にその後『内側の時間』で展開される作者の疑問やコダワリが読み取れるという仕組み。(わたしは順序が逆になってしまった。)
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posted by doino at 16:23| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月06日

寝ながら学べる構造主義

寝ながら学べる構造主義/内田 樹

旅の途中,劇団を主宰している人が,ぼくらの劇中の歌や台本が引用ばかりであることにひどく憤慨してた。あははは。
そのひとは自分で台本や曲まで作るので,「オリジナル」であることにこだわっていたのだった。
本当のことを言うと,そのときのわたしにとってなによりもオドロキだったのは,その人が自分の書いた(これから書く)台本や楽曲を,掛け値なしに「オリジナル」だと信じてそう呼んでいること,そのこと自身だった。
書いている最中でも書き上がったものを読んでも,その中に自分がかつて見聞きしたもの…言語体験からの引用だったり影響だったり,そういうことを自分では感じないということで,…うーん凄い,凄すぎる。
でもその場では,そのオドロキについて本人にうまく伝えられなかった。
あのときこの本をちゃんと読んでいれば自分のオドロキについて,少しは相手に理解できるように言えたかもしれない。(もちろん言ったって駄目だっただろう。)
ラベル:構造主義
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2005年09月30日

切り裂きジャック/コーンウェル

切り裂きジャック/P.コーンウェル

いかった。迫力ある。
切り裂きジャックの真犯人捜しの話がメイン。
帯にもあるけど,執念を感じさせる捜査!
スカーペッタが戻ってきたって感じ。
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ラベル:コーンウェル
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2005年09月24日

物語のあとさき(その2)…不可測性という発見

お芝居でお客がえてして一番楽しむのは,役者が台詞を間違えたり忘れたりした時だ。
台詞を間違えた役者が慌てたり,開き直ったり,その場を取り繕ったりする行為は物語の時間を寸断し,「いま」を立ち上げてしまう。
その時間こそ小説や映画を見るのとは違ったお芝居の本質に近しいはずだ…。そのときのビビッドさをそれ自身として追求できないか。というのが出発点だ。
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2005年09月16日

スカーペッタ,どこへ行く?(ネタバレ御免)

痕跡 (上) & 痕跡 (下)
旅前合宿ごろからこれが出てるのは知ってはいた。旅から帰ってようやく読めた。続きを読む
posted by doino at 04:10| 埼玉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月14日

内側の時間 旅とサーカスとJ・L・D/森田裕子

内側の時間―旅とサーカスとJ・L・G

仙台のへもさんにいただいた本。
もうすこしで読み遜わるところだけど,無茶苦茶おもしろい。久々のヒット目
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posted by doino at 18:24| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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