2019/12/14(6)20:53 | 観劇

未知座は素晴らしかった

未知座って自分たちの演劇における問題意識とかなーり近いところにいるんだなぁと、今回あらためて感じ入った次第。
シーンごとの立ち上げ、そしてそれを芝居として統合していく方法。

だが、、、

未知座の作り出す芝居は最終的にはゴドー待ちなのではないのか、という疑問はある。
「異邦人」がBGでかかるのはもちろん偶然ではない。異邦人=外部の者=ゴドーの謂であることは間違いない。
一人がいるところに二人が旅姿でやってくる。男一人=定住者であり、女二人=異邦人である。
芝居の最後には、立場は逆転し男一人は去り、女二人は居続ける。
のかな。そう見えなくもない程度なんだけど。
「そう見えなくもない程度」であることがここでの最大の問題で、決定的な転換点、後戻りのきかない変革の時こそがゴドーのことなのであって、その絶対性を持てない以上それは再度再々度再々々度…の(ウラジミールとエストラゴンの)「演劇ごっこ」の網の目に絡み取られていくことになるからだ。そうなれば無限の時間としてのゴドー待ちを補強しすなわち「絶望」という名の怠惰の勝利を裏打ちすることにしかならないだろう。
津野海太郎『門の向こうの劇場』。。。
たとえば私達の「のは」と呼んでいる即興のシーンなども、
「いろいろあった。けれども結局残るのは人と人の間の遊びにも似たやりとりでしかないではないか。
これまであった一見『劇的』なあれこれもついぞ何かを根源的に変えるものではありえなかった。あるのは毎日の暇つぶしとしてのおしゃべりと何かを待ち続けるその焦燥だけなんだ」
という事にもなるだろう。
そしてそれは半分は本当のことだ。
だが振り返ってみる。絶対的な変革のとき、革命の時間がやってくることを待ち望むことはできる。それを招こうと努力することもね。でも「その時間を生きること」、いや「その時間を生き続けること」って字句通りのことが果たして可能なのか?
変革の時を生き続けるということ、ぶっちゃけそれ自身が矛盾である。もとより存立不能なことを「嗚呼ありえない」と嘆くことになんの価値があるのか。無窮動の革命なんてそれを目指す不断の行為の積み重ねの中でしかあり得るわけないじゃん?
半分は本当で半分は嘘。価値評価に違いがあるのだ。
未知座の芝居が作り出す会話にはペシミズムが強く漂っている。ただの遊びどころか相互の権力劇、支配と被支配の循環、殺し傷つけあう関係しかないじゃないか、という。このペシミズムこそがゴドーの本質、その牢獄なのではないか。そのような(おそらくは近代の)牢獄に屈しているように見える、ということなんだと今回気づいたんだ。
対しておそらく私達の劇中の会話にはむしろ希望が見えるはずだ。見えるはず?(笑) 少なくともやっている側は希望を見ようと努力しているのだ。そしてそれは、ペシミズムに毒されている者には脳天気なタワゴトに見えるのではないだろうか。
長田弘の詩の一句
死の悪意に抗ってどうしても生きてゆくんだ
生きること、それがぼくたちのつとめだ。
(略)
みずからの
重みのかかるほうへすこしずつ足を踏み出してゆき
ついに行為そのものになっていく。
それがどんなにぶざまなことであるにしろ。(「愛について」)
そのような意味で日々の時間を愛すること、いや愛するようにつとめることこそに意味がある。それがどんなにぶざまなことであるにしろ、ね。

2019/08/05(1)00:46 | 観劇

話が分かる/分からないとか

分からないかもしれないお話? それこそ意味がわからない。
複雑であることは知的であることとはまるで違うことだし。
少しのヒントで複雑な物語を理解できるということはそれはどんな能力なのか。人はそういう能力を持つべきなのか?
ある能力に長けている者が楽しめ、そうでない者には楽しめないどころか苦痛になるような表現。ある種のインプロとか? ある種の前衛絵画とか? それは複雑さ自身のなかに美を見ようとしている。その美を共有できる者とできない者がある。それと何が違うのか。
全然違う。
作者は複雑な話の複雑さそれ自身に美を見て意図的に物語を錯綜させているのではない。十全に理解されることを期待しているにもかかわらず短い時間に複雑な話を詰め込みすぎた。つまりそれは、技術的な未熟さによる失敗であるのだから。

2010/07/20(2)03:17 | 観劇

鳥王覚書

「出番前の人々」は白とベージュのコットン風合いの衣裳で統一されている。これは世界定めである。世界はおおむね無印良品である。


「ナチュラルな」。きわだった印象を作らない。役者や観客の日常から離れない。「演劇以前」をいったん成立させる。結果,無印良品的衣裳が選択される。


このこと自身の困難。百人いれば百個の別の日常があるという面ではなく,共通項に依存しているからだ。それは表現を構成する者,観客や役者を選別せざるをえない。「多くの人」「大多数」の感受性の共通を前提にしているからだ。

そこから多少違った感受性を持ったものはこの表現にノれない。たとえば無印的なファッションに違和感や不快感をもつ者には。彼らは表現者にはなれないのはもちろん,観客としても表現を感受することができない。「演劇以前」に,いわば表現の現場からはじかれている。

(そして,無印ファッションをナチュラルと感じる者が多数派だと言いうるのか。もちろん良品計画はそれを目指しているのだが。)


ナチュラルなファッションはありうるのかを問うことは,ナチュラルな人間とは何かを問うことだろう。人間関係なしに人間はないとするのなら,ナチュラルな社会生活,ナチュラルな人間関係というものを仮想していることにもなる。

それは壮大な,しかしありきたりな嘘ではないのか。
ラベル:観劇 茶番

2008/05/25(7)00:39 | 観劇

快快「ジンジャーに乗って」

元メンバーのO氏に強力に勧められて。
また牢獄芝居かよ! とはいえ牢獄観はポップではある。
時代はナチュラリズム全盛だね。ナチュラリズムはアマチュアリズムとは似て非なるものだ。快快はナチュラリズムという点ではプロフェッショナル。
表現全般,体の制御という面ではアマチュアリズムでやっていきたい,という臭いもある。
ナチュラル(風)な台詞群に一見無関係なダンス風のアクションを絡ませていくのが見所。しかしなんだ,ナチュラルさを対象化する方策として,ナチュラルな台詞内容と台詞回しはそのままに,ナチュラルでないアクションを付随させてみるというのは,うーん,どうなんでしょう,アイデア勝負というか,問題に正面から当ってない感じもする。
そのアクションがゆるいせいもある。「上手な」台詞回しが解体するほど体がもっと酷使された方がいいんじゃないのかなぁ。ゆるさを対象化したそうにしてるけど,その方法自身がゆるい。全体を貫く,集団の売りでもあるだろうその「ゆるさ」こそが牢獄に見える。
すんごく気っ風のいい,キレのある,嫌みのない役者さんたちなんだし,もっともっと見せてほしー。
| 埼玉 ☔

2008/05/10(6)18:11 | 観劇

錦鯉タッタ「安穏。」

なんだ,なんだ,全然おもしろくないぞ。
繰り返しってつまんないないなぁ,というのがまず。自分事だからね(苦笑)。
でも,いやしかし,繰り返している内容自身がつまんないからだ,と考えることにした。
それに「繰り返される」こと自身が意味として面白いことはあり得ない。繰り返すということもそのことで見えてくるものが構想されてないとあかん,ということもある。2回目,適当にはしょられるだけじゃなぁ。「繰り返される」という記号でしかないよ。
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ラベル:錦鯉 AND
| 埼玉 ☔

2008/03/25(2)21:21 | 観劇

未知座「ネスト」

三人姉妹、女中たち、罪と罰、カラマーゾフ、(あまり使ってもらえないとはいえ)中央には鉈と林檎の置かれた「機械」様のもの、前日観た彩星芝居にも使われていた「林檎の木の下で」。むかわさんならずとも「共時性」とか口をついて出てきそう。
まぁ、ネタについてはおいとこう。
舞台を観て、率直に思ったのは、演じるって凄いことだなぁってことだった。いまさらながらに。
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| 埼玉 ☔

2008/03/23(7)21:14 | 観劇

彩星学舎卒業イベント「かたい地べたに はえて立つ」

http://saisei.jp/
未知座の話の前に。こっち。
このイベントに行くといつも思うのだが,わたしはこのイベントの何なんだ? たぶん,お客としての資格を持ってないのだ。芝居畑にかかわっているという理由でやってきているのだった。だからなんとなく居場所がわからない。わからないまま,居て,なんとなく思ったことを書いてみるのだ。
ひとつの継続されている表現行為としてみるに,以前にくらべて全体の圧力みたいのはダウンしているし、構成もいまひとつ納得できない部分もあり。たぶん内部的な問題もありそうで、ひとつ転機を迎えているんだろうと想像される。
とはいえこちら=野次馬からすれば、「教育」の分野で、出演者の日々となんらかの関わりを持つ観客に向けた、なんらかの自分(たち)「発表会」が演劇という形を取って(卒業式を含むというおまけ付きで)行われ続けていること自身とても麗しく思われ、マンネリだろうがなんだろうが続けるべきです!と言っちゃう。
東京の演劇市場とは別のところにこそ演劇の現場があるのだという思いを強くする。
今回も竜くんを誘うのを忘れた。来年あったら是非ね!>竜くん
| 埼玉 ☔

2008/02/29(5)17:52 | 観劇

ニパフ2008川口二日目

霜田さんは,「on the table」のころに気にいって何度か見た。この日は霜田さんの出演しない日。
パフォーマンス・アートってのは間口が無茶苦茶広いので玉石混交なのは当然ではある。
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2007/10/05(5)16:45 | 観劇

うぎー

そもそも忙しい上に,あれもこれもあって。
それに公演も近くって口数が少なくなってる。

もしもし仙台公演
いかったよー。昨年よりいい。すっきりした。
いかったけどもっとばっちり稽古して欲しいデス。そしたらもっともっとよくなる,まだまだ先がある。
暗転がなくて私的にはたいへん嬉しい。
最後の「私のこと知ってる?」(だっけ),よかったねー。
あれって,まほさんがずっとやってた「私のこと好き?」つーのにも通じるし,あと「嫌われ松子」の基本トーンでもある。ある世代的な共通感覚なのかもしらん。私の受容の有無,受容のされ方が問題だという?
最後の道具を壊していくのも(それってテント芝居だろ!というツッコミはおいといて)よかったッス。あの劇場は道具の外側に風景を持ってる(乱雑なものが置いてあるとか)から成立するけど,そうでない無菌培養みたいなペラペラな劇場もある。そしたらどうする。自分たちで風景を「作る」のか? 偶然風,乱雑風に見えるようにものを配置したりして? それともこの公演の風景も作られたものだったんだろうか?

アザリアのピノッキオ
入場前の開かれた街芝居風導入がよかった,ロバもよかった,黒谷さんの人形遣いもよかった,人形自身もよかった,子供もじいさんもよかった,歌姫の歌もよかった,ウードという楽器の音色もよかった,西村さんも伊牟田くんもよかった,台本も説教臭くなくて助かった,大久保鷹のカーテンコールがすばらしかった。
それでも,私にとっては安田さんにつきる。くだらないこと,意味のないことに邪念を排し全知全霊全力を傾けて取り組む。こんなにも明白な暗黒舞踏って!
| 埼玉 🌁

2007/09/03(1)23:58 | 観劇

平原演劇祭

いままでの会場とはうって変わって秘密な、催しの趣。(いままでは「出し抜けにパブリック」だった。)
前回ほどひとつひとつの演物について何か書いておきたい気分にはならず。といってつまらかったわけでもなく。刺激的というのとは違うけど,風景、気候を含めてその時間を楽しんだ。
発見という意味では、劇団12
平原演劇祭に行けばほぼ必ず見ることになるから、もう数年にわたって断続的にそのユルさに付き合っていることになる。だがいままで私はその肝心のユルさを魅力として受け止められなかったのだと思う。
ユルさっていうのは濃密な時間への反措定(カウンター)だと思う。仮想されている「濃密な時間」の像がボケていれば、ボケたユルさしか提出することができない。ずっと12のユルさにピンボケを感じてきたのだと思う。意志され鍛えられ提出されたユルさではなく、世界/演劇の認識の甘さとしてのユルさ。そんな程度じゃ力を持てないよ、それじゃただの世間知らずだよ、と。(この評価自身,多分に主観的なのであしからず。)
今回初めてなんかしらんがおもしろかった。どのへんが?と聞かれるとよくわからないのだが、何かが今までとは決定的に違っていると感じた。
たぶん(そう、たぶんとしか言えないのが歯がゆいが)、「濃密な時間」の認識の精度、深度があがったんだと思う。フォーカスがあってきたというか。意図してユルさが追求されているんだと思えた。
強度ある「濃密な時間」を(も)内側に持つ竜くんとのつきあいが影響してそれを導いたとも思え、だとするならその両者の根気のよさは感嘆に値するし,祝福を惜しまない。
役者・関根ちゃん、すばらしいなぁ。このよさは偶然なのか必然なのか。たとえ今回が偶然であっても、次の機会には必然になっていることを希う。
ラベル:平原演劇祭
| 埼玉 🌁

2007/08/20(1)00:32 | 観劇

シンミョン「立ち上がる人々」

木場で観た。
なにせ音楽がいい。音楽というか,演奏が。
「演劇」的なるものが終わった後,光州蜂起の死者たちがどうかして(?)よみがえる。その祈りの太鼓。素晴らしい。演者たちのノリに打たれる。演者の誰もがかっこよく,深いノリに支えられ,自由だ。場は演者と観客に共有されながら高揚していく。
このシーンは舞台の時間の最後にある。だから表現全体としては説得力を持つ。それはそれとしてテクニックとして了解できる。この舞台をひとつの表現としてみるなら,成功していたといえると思う。
だが,ひるがえってみれば最後の演奏のすばらしさに逆照される「演劇」における演者たちの不自由さは,誰の目にも明らかではないだろうか? 「第二のマダン」の武器を取った市民(学生?)たちのブロードウェイと軍事教練のミックスでしかない「踊り」…その悲惨。その後のおっかあたちとの交流の場のしらじらしさ。死をも予見せざるを得ないなかでのぎりぎりのユーモア…という奥行が見えないまま,市民に支持されていたんだという(もちろんそれ自身が事実であったことをわたしは知っているのだが)アリバイ,説明。「演劇」がここで受け持っているのはそんなことなんだ。
第一のマダンの二人はいいと思う。でも,でもね。あれは古典芸能じゃない? 私のいまに切込んでくる何かではない。(彼らが自分の息子を殺した者を見極めることができるのか,彼らのこれから,彼らの旅をこそ見たい。)
古典と新劇的空疎さの接合。いままさに劇場で生きている身体としての思想が表現として現前化するこの「演奏」に,この「演劇」は全然太刀打ちできていない。ひっこめ演劇!と叫びたくなる。
| 埼玉 ☔

2007/08/05(7)18:34 | 観劇

黒藤院「目覚める前に」

松本から帰って横浜へ。西瓜さんに誘われてた。
後半,よかった。男の若手二人のそれぞれのソロ(一人は声とのインプロ)がはじまるころから。声を使った即興の音楽もこのころからよかった。
蝉丸もはじめて見た。十分に楽しんだ。
楽しんだけれども,いまのわたしには自分ごととしては結局興味が持てないんだと気づいた。完成されたもの,破綻の影もないものはいまはいいや。
ちょっと焦ってきている自分を発見する。
| 埼玉 ☀

2007/07/23(1)02:06 | 観劇

キンダースペース「競馬 勧善懲悪」

開演前。
おかど違いのキンダースペース観劇。
北トピアつつじホール。
正真正銘自他共に認める新劇をそれと知って観るのはいったい何年ぶりのことだろう。
知り合いが出演している。初日10日前に終日稽古に入ると聞いた。「たった10日!?」というのが率直な感想だった。作家や演出はこの新作のためにおそらくは少なくともその数倍、場合によっては数十倍の時間を費やしているだろう。と考えると、この表現はどうしたって作家・演出のものだろぉ。
≫以下終演後。
| 埼玉 ☁

2007/07/16(1)04:11 | 観劇

観劇予定

今月は花上さん,烏山・山あげ祭。
8月はシンミョン。韓国料理「大使館」駐車場ってのが面白そうかな。話は違うが,韓国料理店とか韓国食材屋って「大使館」とか「大統領」とか多いよね。なんで?
姫子様から9月一人芝居がある旨の連絡有り。一人芝居!? 勇気あるなぁ。これは行く。
イキウメから9月「散歩する侵略者」公演のハガキが届いた。有川マコトさん,出演しないのね。かなすい。でも行く。
パレスチナ・キャラバンは…。9月だったかな。
あー,もしもし東北公演も!9月!
9月はタイヘンだ。
そういえばAND今年はアリスに来ないのか。
| 埼玉 ☔

2007/05/14(1)22:04 | 観劇

花上さん「歴史」

久しぶり。
いつ見てもちゃんと面白い。そう,そうなんだ,工夫は愛だ。
いちばんよかったのはひとの(すごくありきたりな)頭部の人形だけを(花上さんの)頭の上にのっけた半人形。花上さんの頭部は布で隠されている。
背が異様に高く,足が短く,手が長い。ものすごく奇妙な体型のヒト。手足の長さのバランスをちょっと壊すだけでこんなにも面白い。「ちょっと」というところがミソで,すごく壊すとヒトに見えなくなっちゃう。
なるほどねぇ。「バランスを崩す。」
首を切り取ってからはヒトに見えにくいのが残念。でもひっくりかえった体勢で股の間に頭を置いたときは「あっ」と思った。足は手に,手は足に見えなくもない。ますます奇妙なヒトの形象が。でも首を切り取ってからの面白さは十分に鍛えられていない。まぁ面白いからといって大盤振る舞いしない上品さが花上さんの持味でもあるんだが。
ラベル:花上さん
| 埼玉 ☁

2007/03/25(7)22:45 | 観劇

兎に角裸足で駆け出そう-和風レトロ

retro_.jpg表現としての「つたなさ」がみつまめ/和風レトロのキーだと思う。表現としてのつたなさを味方につけられるかどうかだが,この芝居はいままでになくそれが必ずしもうまくいってないように思える。
つたなさはあってもあざとさはない。だから演劇的なケレン,嫌味はなく,後味はいい。見ていられる。なんであろうと応援したい気持ちもある。
外部に属する人物…熊谷清正さんの演じる人物…が登場するのは和風レトロでは珍しいのではないだろうか。そこにこの芝居の一番の挑戦を感じる。が,その挑戦はまだ途上だと思う。果実を得るにいたってない。そしてわたしとしてはこの挑戦自身を微妙な気持ちで受け止めてる。
外部の存在を舞台に上げるとき会話が生まれる。同世代の語彙とリズムの鎧を身をまとい客と対峙するという面よりも登場人物内部での対話に重きを置くことでクラシカルな(第四の壁を持つ)「演劇」のフォルムが立ってきている。そのことをわたしはやや苦々しく思っているんだ。
対話であり…つまりそれぞれのキャラクタなり考え方なりの相対化をはかり…つつ,表現としての絶対性を獲得できるかどうか。

17席固定の極狭の劇場は魅力ある。
でもなー,少なくとも舞台上の上下の幕はいらないんでないの。(あ,細かいことひとつ言っちゃった)
| 埼玉 ☔

2007/03/21(3)13:00 | 観劇

狂想のユニオン-イキウメ

前回よりもよかった。
けど、私にとっては「まずまず」。
芝居の後半、揺れる姉とその婚約者の会話。責め合いながらやさしさを失わない、痛みが伝わってくる会話は、この芝居でいちばん深い台詞だと思う。
ラストにもより強い情感が成立する設定は用意されている(弟が死にそう等など)けどなぜかその情感は台詞として結実しないまま終わってしまう。一番強い、複雑で繊細な情感をなぜ大切にしないのだろう。
「散歩する侵略者」に比べると、なんか「社会派」にでもなりたいのかと、そんな風に見えちゃうところがいちばんの不満。
とはいえ、姉と弟が直立したままストンと落下していく様はなかなか。(もっと…決定的なシーンで使ってほしいかも。)
役者たちも(いつものことではあるが)達者。有川さん、岩本さんの二人はすごい。特に岩本さんて神にも悪魔にもなれそうな。二人とももっと活躍してほしい。
ラベル:イキウメ
| 埼玉 ☀

2007/03/19(1)22:29 | 観劇

首輪物語2@京都

いかった。
わたしにはある意味ベストマッチな芝居だった。
芝居を見ながら「茶番の王道」となんども考えた。茶番への志向がはっきりしていて迷いがない。清々しい。
ああそうか。わたしは役と役者の関係について考えてた。
茶番だから役者がケチな内面を吐露したり、何か大仰なことを分かった風にしてみせることもない。内面に拘泥しないから身体のキレがよくなる。
久々にまゆみちゃんの勢いのある芝居を見られたのはほんとに嬉しい。
≫続きを読む
ラベル:京都 物語 茶番
| 埼玉 ☀

2007/02/12(1)23:54 | 観劇

錦鯉タッタ『POTS2』

nisikigoi.jpg自分の芝居のことをぼちぼち考え始めたせいか,他人のやっている芝居にいまひとつうまく対応できない。
自分にとって異物だと思われる「鹿殺し」とかについてははむしろ考えやすいのだが,自分たちの流儀にそこそこ近しい舞台表現に対する向かい方がよくわからなくなってる。
蜂蜜劇場につづいて今回は錦鯉。
役者たちに文句はない。よりベクトルを強くして欲しい思い(「もっと~」)はあるけど,それぞれのベクトルの「向き」に文句はない。どの役者もいい役者であるし,ことにかずみちゃんの「傘」のシーンにはぐっときた。
ここで役者たちに文句がない,というときには所謂「自主稽古」で作られたと思われるモノローグのシーンに文句はない,ということにほぼ等しい。
ひるがえって,この芝居の時間の多くをしめる会話のシーンのほとんどには興味を持てない。物語の構造とかは前回よりも鮮明になっているし「物語読み」でない観客の一人と思われるわたしにもよく理解できる。でも「なるほど」以上の感慨はない。
≫なぜだろう,と数日考えた。
| 埼玉 ☀

2007/01/24(3)23:31 | 観劇

蜂蜜劇場『鰍森』

なんで感想が書きにくいのかなぁと考えてみる。
尻が痛かった?
それはある。「面白かったけど尻が痛かった」「尻が痛かったけど面白かった」両方ある。
自分らに似てる?
うん,それもある。構成の手つきとかかなぁ。
なんか芝居が長くなっちゃうようなところとかも? チャンバラやりてーんだよーみたいなところ?
ただ,どうなの,それって感想が書けない理由になるの。
役者はどうだったか?
悪くない。っていうか,いいに決まってる役者たちだからね。あえて文句を言えばナカムラ以外は想像よりもひとまわりずつ小粒。ちょっと「ご隠居?」とか「発見の会」(失礼)とかいう言葉が頭をよぎった。(宮崎さんは別。)断続的にではあれ,ずっと芝居をやってきた人たちって難しい。
それぞれのシーンは?
観てから二週間近くたって一番印象に残ってるのは,最後あたりの佐藤のサカナを植えてるシーン。ただ,このシーンは凄くいいのに,どことなく映えない。なにかしら劇場演出的にしくじってるせいだと思うのだが。惜しい(もったいながり)。
ビーチでお客に面と向かってにやついてるだけのシーンもよかった。でも,こっちはたぶん「思いつき勝負」だよね。役者的にはサカナを植える方が正道だと思う。
ナカムラの死後の人の肉体の話。見ていたときは,ひとのおもさ人形にかぶるところあるし,「これは台詞でしゃべるんじゃなくて芝居として見せて欲しい」と思った。けど今になってみると案外印象に残ってる。
ああ,そうだ,「忘れました」だっけ,あれは台詞,いーねぇ。
岩ちゃんの立ち姿。いったいいつ以来の舞台なの? 以前より,身体の芯の力が抜けていい感じ。怪しい庵のシーンもいかった。舞台が暗かった印象。パキっと明るくても面白いと思う。
で,結局?
思い起こしてみると,どのシーンもいい。はず。なのに,なんかそのオモシロサを堪能させてもらってない不充足感がある。やっぱ尻が痛かったからか。それとも何か別のことがあるのか。
まいいや。旗揚げだし。次も期待。
ラベル:蜂蜜劇場
| 埼玉 ☀