2020/11/23(1)21:59 | 注釈

おもしろすぐる

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これはトランプに関するニュースを見ていて、そこに表示された中国の通販サイトにおすすめされた商品の記録。
幾重にもねじれたこのスクリーンショット! なかなか世界はすごいことになっている?

2020/08/20(4)17:04 | 注釈

運転免許更新のアレ

今日はなんか降って湧いた「休日」一週間の活用第1弾で鹿児島市にて運転免許更新。
講義室がむっちゃクーラー効いてて、アホほど寒かった。それでもそこでうちわで扇いでいる人もいて、驚く。1時間の講義=寒さに耐える運転者訓練を乗り越えた。
しかしその一方、今日の講習は面白かったことを報告しておきたい。じつは鹿児島へ引越してきて驚いたことのひとつが、免許書き換えのときの講習のつまらなさだった。
埼玉の免許センターの講習は(もちろんばらつきはあるものの)概して面白く、教官は警察官でそれぞれなりの最近の交通事故の分析やらがやけに勉強になった。対して鹿児島のそれは安全運転協会がやっていて、慇懃なだけで無内容、勉強の跡も熱意も一切ないもので、これはこういう無意味に耐える訓練もしくは拷問だと割り切るしかないものだった。
しかし今日の講師はおそらく協会の人間ではなく警察官で、すくなくとも「俺は今これを言いたいんだ」ということが伝わってくるものだった。
今日面白かったのは、後部座席同乗者のシートベルト着用率(都道府県別)。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20200129-00160693/#
グラフ4つめ。鹿児島県はワースト3である。数年前まではビリだったそうでこれでも改善されたとのことだが、なんとかも少しマシな順位に付けたいというのが今日の教官の切なる念願であるようだった。わたしとしてはどうでもいいというかむしろビリでありつづけたらそれはそれでおもしれえと思えるが、重要なのは講義の主張に首肯できるかどうかではなく、講義に主張があることそのものなのは言うまでもない。
数年に一回しかない全免許保有者に対する講義は、交通安全の啓発の貴重な機会である。それをこともあろうにダメな日本の縮図のような交通安全協会なるものに丸投げしていた鹿児島県警。その悪習がここにきて翻されたのはいったい何故なのかはわからないけど、少なくとも1時間の拷問が連綿と続いていくよりはよい方向に動いてたというたいへん明るい話題?

2020/05/23(6)18:33 | 注釈

このコロナ禍とは何なのか

このコロナ禍とは何なのか。わたしたちは今年それとは全然関係なく活動の休止を決めていた。そのためにコロナ禍によって予定が変更になったり活動の支障になったりすることがほぼなかったために、このコロナ禍に正面から対応をせずに済んでしまった、ということがある。
このコロナ禍をめぐる同調圧力はたしかにオウム事件とも近しい感じもする。だが。
オウム事件は事件そのものは教団のやったことではあるが公安はそれを多かれ少なかれ情報を得ていたことは確かだと思われ、意識的に「泳がせ」て事件を完全にではないにしろ操っていた。。。少なくともその動きに関与しており、世論づくりを含めて支配のための有効な契機にしたことは間違いない。
それに比べて、今回のコロナ禍はその権力による「仕込み」度合いが格段に低い。
政治権力、社会権力によっていわゆる三密を避ける行動が推奨され、強要されていたことは間違いないのだが、はたしてそれは権力による恣意的な支配の一環であったと言い切れるのか。私にはそう断言する根拠を持てないでいる。
このドサクサ非常時の中でいろいろと不都合なものに蓋をしたり、平時であれば通りにくいものを通していく、そういう契機として活かそうという権力意志は明瞭でそれはそれとして動いてはいる。ものによっては成功し、しかし(アベノマスクにせよ検察の定年延長問題にせよ)ものによっては成功していない。経済への悪影響もはかりしれず、アベノミクスなるもののみてくれの「成果」も吹っ飛んだ。もとより中身のない成果であったからそれの化けの皮が剥がれただけであり安倍にとって景気悪化をアベノミクスのせいではなくコロナのせいに押し付けることができてむしろお得だったのだという説もあるが、それはどうだろう? 苦し紛れの逃げの一手としては成功しているとも言えるけど、少なくとも好景気を演出し続けたい目論見は大きく崩れたことに変わりはないだろう。
だから権力によって仕組まれた、というのはおそらく間違いで、311がそうであったように権力はその災害の前で右往左往していただけだというのが実態だ。そのとき民主党政権より自民党政権の方がマシ、危機に強い安倍自民というイメージも大きく損なわれた。(菅より安倍のほうが危機において「より無能」+低劣な悪だというのは私にも意外だったが。)
この危機の只中いかなるカウンターがあり得たのか、という問い。わたしたちは先に書いたようにそれを問われずに済んでしまったが、この件の事後評価などについては別途考えたい。
だが、それよりも私が興味を持っているのは、対権力問題を含みながらもそれを超えた事件であったこのコロナ禍が何を残すのかということだ。コロナ前の世界とコロナ以後の世界の何が変わるのか、その本質は?という点につきる。
ラベル:コロナ

2020/01/19(7)20:34 | 注釈

海中

上から光が。

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泡が上がってくる。人は泳いでる? アクアラング付けてる? いや?
鯛や平目の舞い踊り的なイメージも付随させられる。

ラベル:風景

2018/12/10(1)18:21 | 注釈

テキスト

自分用のテキストについて考えなければ。
テキストのストックはかなり古いものしかないんだ。岩田宏かなぁ。
閉塞する五つの唄、たとえば
夢が
役に立たないと
そう分ったので安心して
眠った
というフレーズ。
古臭い? そうかもしれない。それは私が古臭い、ということなんだろう。
だがそれってどういう意味なのか

2018/11/26(1)00:41 | 注釈

フィールド

一所懸命という言葉があるが、自らのフィールドを見つけるということは重要なことだ。
この場所が駄目なら別の場所に行けばいいというのはアルバイター的な姿勢、腰掛けの発送だと思う。
この場所から後ろはない、逃げ場はないところではじめて見えてくるものがある。ある行き詰まりを迎えてずして人は自ら道を切り開くことなどできず、切り開くということこそが人が生きる醍醐味?ではないか。
場所といってもいろいろな水準で考えることができる。日本、街、集落といった文字通りの場所もあるし、たとえば「演劇」というフィールド、「役者」というフィールド、「音楽」というフィールドもあり「ジャズ・ピアノ」というフィールドだってある。
わたしのフィールドは演劇でも演出でもなく、「ど」だと思う。演劇なるものは集団でやるものだから、構成員が劇集団がフィールドとするのは必然性があると思う。バンドマンも「音楽が好きなんじゃなくて、このバンドが好きなんだ」とかいかにもありそうだよね。
でも、案外そうでもなく、ここで行き詰まったらどこか別でやればいいという姿勢に接することも少なくない。不満とか憤りということではないのだが、なにか不思議な気がする。
ラベル:フィールド

2018/11/24(6)01:13 | 注釈

SNSの風化を見据えて

みんなSNSにうんざりしている。
今後SNSが無くなってしまうこともないと思うけど、有効な発信手段ではなくなる、なくなってきつつある、と思う。
これからは言説や情報をいかに開くか、ではなく
いかにそれを閉じるかがテーマになると思う。
ただ閉じて記録にしたいだけなのであれば、Evernoteに書けばいい。パーソナルな関係だけを求めるならLINEで事足りる。
ブログを使うのは、先に見ようとしているものが「別の開き方」であるからには違いない。
おいおい考えていく(かもしれない)。
ラベル:SNS 発信

2011/09/28(3)09:01 | 注釈

宝塚歌劇

宝塚をキイにしたら何か起きないか(by康子ママ)

たとえば台本
ご都合主義的な話の運びを盗めないか。

たとえばタイトル
ど真ん中<ベルサイユのばら>というのはどうか。

2011/09/09(5)15:00 | 注釈

ちくわ式演劇製造法

芯にさまざまなネタをくっつけて成形し、熱を加えて固める。
固まったら芯を抜く。
ネタの「つき具合」の中にかつての芯の面影がある。
ちくわとは周囲のネタとともに、ネタの根拠であった芯、かつて芯であった空洞を味わうものだ。
芯とは物語である。

「犬」以前、「人形」以前、チェーホフや近松を軸(芯)としてちくわ式で芝居を作っていた。
…と思ってきた。
が、改めて考えると、ちょっと違う気がしてくる。

事実として、物語のもつクライマックスや大きな展開点をシーンとして芝居で(舞台で)やってきた、ということがある。
これはちくわ式の主旨からいうとオカシイ。
物語を解釈し、その解釈にもとづいて物語の要約(芯)をいったん作り、それに再度肉付けしていく。
だが、その要約、極限まで肉をそぎ落とした物語の骨格それ自身は(読解の好きな観客であれば)読み解ける、というところにミソがあった。と思う。
これはやはりちくわ式の主旨からいうとオカシイ。

ちくわ式とは物語をテコに、あるショーを、見えるものとしては直接物語を想起させない演しものの連続を作り出す方法論ではなかったのか。
わたしたちがかついてやってきたことはむしろ強度ある物語世界の創出だったのではないか??

2011/02/12(6)13:59 | 注釈

自主稽古11-02-11

けん
「冷静になるんです」Deluxeで時折のやった台詞を大幅に削ったもの。音=クラシックいいね。お手軽世界構築。現状一人芝居として展開しているせいもあって「皆さん」の相手がどこにいるのか気になる。もし他の役者が板の上にいたらどうありうるかを考えたり。みんな座っている,というのもしばらくやってないなぁとか。「この形」がどこのどの形なのか不明。立ち姿,堂に入っている感じ。小道具は再考。
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2011/02/07(1)13:42 | 注釈

11-02-07

LAST BURLESQUE / last burlesque:最後の喜劇?バーレスク
LAST SUPPER / last supper:最後の晩餐
last train:最終列車
last flight:最終便(フライト)
final answer
final chapter:最終章

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vital show
vital spark:(音楽・小説・劇などの)生き生きとした力.

vital sign(s):生命徴候
vital statistics:1 人口動態統計 2 死亡証明書 3(女性の)スリーサイズ
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a / the は可変。lastでもfinalでも a がいいな。

2011/02/04(5)21:59 | 注釈

自主稽古 その2

2B
①「海でーす」。何かの練習。<コーチにダンスを見てもらっている> Dはコーチ役ということになるが,Dはしゃべれないから役者は「聞こえた芝居」をせざるをえず,ちょっと苦しいか。
②「親権問題」。犬のおもちゃ。小さくかわいい。電池でキャンキャン言う。役者の足にまとわりつく姿はネタとしてはおもしろい。おもちゃが最後何か別のものとしてではなく,おもちゃそのものとして扱われるのは不満。かわいいだけにそれとの関わりがもっと欲しくなる。そしてそれをふくらませていけばDとの関係が焦点化しなくなる(気もする)。
③「くわしい方いらっしゃいますか」。客への無茶振り得意なのかも?
④「いいよ」。ていねいな物言いが他の演しものと分けている。肩車。Dが上になるときよりもDに肩車される時の方が面白い。しっくりくる。と健太の指摘。それにつけてもややDが(リアル重量的に)軽いかも。「そうだね」という最後のセリフ,未消化ではある。きちんとしたテキストが欲しくなる。
⑤「なんで捨てちゃうんだよ。まだ使える」。言う相手が正面でいいはず。どう使えるのか,詳しく知りたい。
⑥「柔軟指導」。実際には前にやったダンスの一部を指導。おもしろい。Dが「できない」ばかりよりは「そこそこできてる」「そこがいい」「あとここを直したらもっとよくなる」「ここができないのはこういう理由だ」的な専門家風ウンチクが欲しい。指導者自らやってみせるのも悪くない。Dを持ってくるところ,もって帰るところ,再考の余地がある。
※全体に(④を除いて)人物やDの「大きさ」が均一,等身大であることがある停滞感を持たせる。もっと大きなものとして自らの身体を作ることもできるだろう。前回おばあちゃんはキャラが捉えられているぶん,大きさを獲得していたと思う。仮面をつけて演技するとき,身体の(演者にとっての)大きさが変化するはずだ,と西瓜さんが言っていたっけ。そういえばボートシアターで仮面をかぶった時もそんな感じ。(全知全能のではない)神になるイメージ。キャラを太く強く作ることと仮面を被ることは似ている。
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2010/04/12(1)03:38 | 注釈

構成注 2

いまあるシーンを並べて仮に通しをしてみる。2時間オーバーは変わらず。それでも前回よりは10分近くは短くなっているのだが…。
これは性根をすえてカット!する必要がある。うう…。
ダンスは今回の芝居ではウリなのだが、いままでとは一風変わった感じ。
これをいままで通りラストに置けるのか、という疑念を強めた。
その他の構成も全然納得いかない。
流れを寸断するのは、別の何かが増幅していく、別の流れを生むための仕掛けであるはずだが、まだその何かが見えてこない。
前回の構成を自己参照している自分がいる。
しょうがないことなのだが、そこにかまけてばかりではこの山場は乗り切れない。
まだ何の自信も持てない。
もう何回か、試作してみる必要がある。
| 鹿児島 ☁

2010/04/09(5)07:04 | 注釈

構成注 1

・犬とは何だ。獣。ペット。あるいは人。生きているもの。生きていたもの。死んでいくもの。死んでいるもの。たぶん「他者」。
それは視線をもっている。対象である前に…視線,と気づくとまたちょっと違ってくるか。観客に似ているな。さしあたり,観客といっしょ見ていてもらおう。
・生と死にきちんと向き合うということ,僕らは本当にヘタクソだ。やれてない。そういえばどくんごの舞台には死のにおいが希薄だ,と西瓜さんに言われたことがあった。少なくとも死は「使う」ものじゃない。見返されるものだ。…それでも今回ちょっと前進か。人のおもさ人形から犬に変身して全10年。あまりにちょっとの前進。まだよくわからない。
・大きなフレームは見せ物小屋。これ,毎度のように言っているけど十全にできたという手応えはない。見せ物小屋の空間的な胆はその暗さ,光量の少なさ(裸電球)にあると思う。暗闇が残ってる劇場。だが,実際にやってみると個人的な好みの問題として息苦しくなってしまって全部見せちゃえ的な方向にいつのまにか軌道修正,ということを繰り返しているかも。暗闇と全部見せちゃえ。折衷ではなくクロスする地点が案外身近にある予感はするのだが…。さしあたり見せ物小屋フレームを再確認。「夏」縛りもなくなったことだし。
・前回からテントの幅がでかくなって空間が広がっている。光量も増し,外へと向かうベクトルも強くなってる。その流れをそのまま増幅していくと,単なる「のびのびした」ショウの空間になっていっちゃうな。要注意。天幕も下げるか…?
| 鹿児島 ☁