2021/02/18(4)23:51 | 夏の扉

旅の長さ

仮に来年春に旅-芝居を再開すると考える。旅の期間をどのくらいにしうるのか?ととりあえず考える。
ここ10年はほぼ毎年、7ヶ月にわたって旅をしてきた。しかし、、、
  • 抗がん剤治療を少なくとも旅の期間やめないわけにはいかないだろう。
  • 抗がん剤を(一時期にせよ)やめると病気が悪化していくのか。それはやめてみないと実はわからない。もちろん、それまで薬によって抑えられていたがん細胞が「勝機到来」とばかりに一気に増殖してくるという可能性も十分にありうる。一方、自前の免疫力によってそのように展開しない可能性もないわけではない。
  • 胃腸の働きの不安定さや体力の低下といった体調不安が現在もあり、旅の準備中や実施中にそれが続いている可能性は高い。けれども、現状でもそれががん細胞が悪さをしているから起きているのか、抗がん剤の副作用によって起きているのか、それもまた実際のところは抗がん剤をやめてみないとわからない。
わからないことだらけではある。わからなければやってみるしかない(?)。ととりあえずここでは考えてみる。
(とりあえずとはいえこのように考えられるのは、今現在、はっきりとがんの増殖の徴候とわかる症状を得ていないことによっている。追記:2021-02-19)
とはいえ、長期の──例えば7ヶ月の──旅を事前に組んでしまうことはリスクが高すぎる、と思われる。
たとえば旅の全体を3ヶ月程度と見積もってみたらどうだろう。
それでもその全日程を走破できるかどうかは、はっきりいえばこれまたわからない。
一ヶ月前に中止が分かればまだいい。前旅の知多~長野のように公演日直前に腸閉塞を発症し中止が決定することもありうる。
前旅時はがんの再発から腸閉塞が発症していることが疑われておらず、かつ実際のところその数ヶ月前の胃切除手術の後遺症であった可能性も高い。したがって腸閉塞が治療されれば退院となり、その後の旅は継続し得た。しかし次回旅でもし前回同様に腸閉塞を起こした場合はそうはいかないだろう。がんの増殖が原因であることが強く疑われ、当然退院とはならず結果旅への復帰は難しくなる。
どんなイベントにも中止リスクはあるが、通常にくらべて極めて高いリスクを抱えることになる。リスクは旅の後半になればなるほど高くなる。(各地受入にはそのような高リスクを事前に承知してもらう必要がある。)だから、、、旅日程を短くしてみる。
4ヶ月でも1ヶ月でもなく3ヶ月、ということにこれといった根拠はなく、そこは「エイヤッ」と仮説しているだけなのだが。
春からはじめて、夏の北海道で終了。。。今までのことを思うとあまりに短い旅だが、そもそも今回の活動休止は病気対処のためのものではなく、旅や芝居の総体を作り直すことが主眼のものであったことを思えば、ある試行の最初の一歩としては悪くないのかも。

2020/11/29(7)18:53 | 夏の扉

選択する

学生時代に、究竟頂(銀テント)という劇団の公演を一回だけ見たことがある。
その芝居は、公演に脚本が間に合わなかったため急遽劇団の過去の公演の「見せ場」?を構成したもので、一貫したお話はなかったように思う。その中で記憶に残っているシーンがある。
山で遭難した者たち。そこでは厳しい選択が課せられる。
  • 夜が迫る中、どこかでビバークするかこのまま暗闇を進むか。
  • 道が二股に別れている。道標はない。右か左か。
  • 喉がかわく中限られた水を飲むのはいつか。今か。それとも今は耐えるべきか。
といった事柄だ。
そのシーンの前後は語られず、どうして遭難にいたったのか、その後どうなったのかは不明。二人の男が苦しみながらもそうした厳しい選択を重ねていく、というだけのシーンだった。
選択内容は多岐にわたりかつ時とともに発生し続ける。すべての選択は両立不能で、かつその選択によっては命を失う危険がある。
この時代を生き抜くのも同じく選択の連続だ、という暗喩である。日々を生きる時間の中、無数の行動選択の機会があり、それのどれが重要かはわからず、そしてときに選択を誤れば希望は潰え、(正しく)生きることはできない。
実際の日々の選択の場面では上記のような二択三択といった択一課題だけがあるわけではない。このシーンの例で言えば「どのくらいの速度で歩くか」とか「仲間にいま何を語るか」といった無数の(グラデーションを伴う)選択の場合もある。むしろそうしたより高度な選択の場面の方が多いだろう。
具体的な生きる場面で生死を分かつ「AかBか」といった決定的な問いに出会う機会は多くはないし、実はその選択が迫られるときよりも前の時点での別の選択に誤りがあったゆえにそのような究極の選択が迫られる結果となっていることがほとんどだろう。
また、「AかBか」という二択の問いに応えようとすると必ずAかBのいずれかが(非選択の)犠牲になる。その択一の問い自身が正しい問いかということも考えてみる必要があるし、「よりよいC、Dという選択肢はないのか」あるいは「AでありかつBであるという解はあり得ないか」という検討は重要だろう。
だが見た芝居では、あえて選択肢の中からの択一課題だけがピックアップされていた。上のように実生活ベースで考えてしまうと、芝居としてひとつひとつの選択に重みを持たせることが難しくなってゆく。芝居の主題を鮮明にするためには、絶対的な対立項「AかBか」がごまかしのきかない問いとして問われ、それに自らの知見のすべてを動員して明日ではなく今このときに選択せざるを得ない厳しい場面とする必要があったはずだ。
このような絶対的な選択のシーンを作るには。
そう、「のは」は欲望の根拠を問う自己遡行的な対話だったのだが、それに代わる対話モデルを作るにあたり、このような「選択」のシーンはあり得ないか、と考えているんだ。できあいの脚本を持つのでも悪くはないが、できるだけ即興要素をメインにして。
いったん「遭難」という設定は悪くないかな。それが山の遭難なのか海の遭難なのかあるいは宇宙の?とかをないまぜに?

何故かこの究竟頂を主宰していた人の名前を覚えていて、山川三太さんという。検索すると、なんと今は秋田で舞踏・ダンスのディレクターをされているらしい。こ、これは。。。知り合いの知り合い程度の近さにいらっしゃるようだ。
とりあえず脚本『山川三太処女戯曲集』を注文してみた。もしかしたら上記芝居の脚本がずばりであるかも。

2020/07/17(5)16:22 | 夏の扉

何をしたいだろう。

実際のところ、何をしたいだろう。当面まったくの自由、金銭にも困ってないとして。
とりあえずは、食いたいものがけっこうあると思う。列挙は控える。ただ胃腸の調子もあってその食いたいものを目の前においたとしてもそれをイメージ通り楽しめるかはまた別問題だけど。
ありがちではあるけど、行きたい温泉もある。
食い物も温泉も未知のものにはさほど興味なく、今までに食べたもの、いったことのある温泉でまた味わいたいものがあるって感じ。
海外とかはなんか面倒臭い。何を見てみたいとか今はあまりないな。すんごい保守的な志向が今明らかに?
あ、欲しい物という意味では、原チャが欲しいかも。他にはイヤホン(笑)。退院したらもう要らんけど。
イヤホン程度のものはちょこちょこ欲しい物あるけど、家に興味ないし、車とか飛行機とか欲しくないし、かなりお金かからない性格だと思う。
自分のやりたい演劇というものをうっすら考えはじめたとたん、いきなり「まだ誰も見たことのない言葉と身体の関わり」とか考えてる自分を笑う。これだけが唯一革新的(笑)。
革新的であることは緊張を強いる。たとえ「凡庸であることを突き抜けた先に革新がある」と考えて結果としての舞台は緊張感無いものが構想されているとしても、それを実現しようとする現場は凡庸ではありえないわけで。
だからこそ、それ以外の事柄にはむしろ安心を求めるのではなかろうか。バランス取ってたのかもねぇ。

2020/07/14(2)08:29 | 夏の扉

ホームページについて考える

いまさら劇団ホームページというものにどういう意味があるんだろう、とは思う。
けど旅を再開すれば少なくとも予約ページというものは必要だ。インターネットを忌避する反時代過激派スタイルも魅力あるけど、おそらくはそれをすることからくるアナログ作業につぶされそうだ。その中の一番は公演予約だと思う。これを全部受け入れに振るのは現状では無理があるし、すべて劇団電話でのみ受けるというのも無理がある。
公演予約をネットで受け付けるということは、なんらかのポータルが必要ということになる。
ときに劇団というのは多くの場合持続を前提とする集団で、ゆえに劇団という単位でのホームページが主流になる。
対してたとえば映画の場合は制作集団というものは持続しない。こちらは「上映特設サイト」みたいになっていることがほとんどだ。作品のあらすじとか見どころ、キャストの紹介、予告編の視聴、そして上映映画館のリスト。
持続する集団という意味を前に打ち出そうとすると、過去の記録とかをそれなりの重さで位置づけざるをえなくなり、どうしても懐古的になり「切断」よりも「持続」が前に出る。そのことが「今(作)に賭ける」凄みを薄めていることに気づくのだ。
過去には興味はあるがそれは教訓を学び今と未来に繋げられる限りにおいてなんだ。(過去を目標とする復古主義者でない限り)何よりも今が重要でそれは今の行為だけが未来を開く可能性があるからだ。過去はそのための参照物にすぎないし未来は目標・幻視されるものでしかなく、行為は今にしかない。陳列された過去を愛でることに非運動的な、いわば加齢臭をかいでしまう。
もとよりこの現在形を偏愛する感受性がどこからきているのかは分からないけど、だからこそライブとしての演劇を志している、ということはそれなりに納得いくものがある。
私たちのホームページにとって予約が実質的な意味と考えそして以上のようなわたしたちの性質(タチ)をはかると、継続する集団をアピールするよりもこの「上映特設サイト」的な性格にしていった方がいいんじゃなかろうか、と今考えている。
もっとも今は公演予定はないのでイメージを全面展開することはできないのだが、それでもその準備ができるのは今しかない。ということでぼちぼちはじめていこうと考えている。

2020/06/28(7)15:24 | 夏の扉

復帰のイメージ

自分の仕事的な復帰のイメージは、とりあえずテントの試作の再開。それとコロナ以後の現在の演劇的なるもの、あるいはライブパフォーマンス的なもの全般の置かれている状況への言葉が多少は整備される必要がある。そして五月さんとの共有も。その上で自分たちの立ち位置についても考察が可能になると思われ。ここを深められるかどうかで次の一手の質というか射程距離というか、、、が決まるように思う。
また、インターネットことにSNSとの付き合い方についても再検討に付されるべきだと思う。この10年(+α)は言ってみたら劇団とSNSの蜜月時代だったと思う。それと同じ蜜月がありうるとは(ナントナク)思えず(それは何故か)、そうだとしたらどのような立ち位置がありうるのか。
と、狭い意味での知的な作業はたて込んでいる。慌ててもなんともならないから、ひとつひとつ取り組んでみるしかない。
写真は病院に持ち込んでいる本たち。
2020-06-28 15.14.32.jpg

2020/06/28(7)11:31 | 夏の扉

色、光のコンセプト

asaba-art.jpg
これはアサバ アート スクエアというアート系オーガニックカフェの写真。どいういう経緯でこの写真を見たのかはすっかり忘れてしまっているのだが、この写真の色彩が気に入って保存しておいたもの。
この 白-青-緑 のベースに 黄-白 の明かりのコントラストがたいへん美しい。
この色彩で劇団イメージカラーなり芝居なり宣材なり、作れないかと考えている。あるいはテントに夕刻灯が入るときにこんな色に見えたら素敵だ。
テント風景はともかく、他のデザイン素材と考えようとすると、色彩だけではちょっと展開しきれずあとなにかひとつふたつの具象物のテコが必要ではあるのだが。。。
このアサバ アート スクエアというところにも行ってみたいかも。