2005年10月24日

サーカス−そこに生きる人々−

ルポルタージュ,文学,歴史書,思想書,フランスサーカス案内…そのいずれでもあっていずれでもない。
何度か紹介している森田裕子さんのサーカス本のうちの一冊。
これは『内側の時間』よりも前に書かれたもの。おもに「サーカス・アート国立センター」の学校にいた時に会った人々について書いてある。
『内側の時間』よりも読みやすい。へもさんが「こっちは入門書かな」と言っていた通り。あくまでも「そこに生きる人々」に焦点をあてて書かれていて,その中にその後『内側の時間』で展開される作者の疑問やコダワリが読み取れるという仕組み。(わたしは順序が逆になってしまった。)
「サーカスはつねに消去法で語られる。いわく,演劇ではない,バレエではない。オペラでもヴァラエティ・ショウでもない。では,残ったものがサーカスなのだろうか。そこに何が残るのだろう……。」と。この思索は私事として興味がつきない。

作者が繰り返し問うているのは「サーカスと演劇」の本質の違いについてだ。この本の中でも何度も問われているし,「内側の時間」でも執拗に問われる。(『内側の時間』最終章近くで気合いの入った記述から「とりあえずの結論」を導いている。)

しかし作者は「演出」なるもの全般を嫌がっているわけではない。
357頁であるサーカス団の見せ物について書いている…
…ショウ全体の空気は統一されているのに,番組のいちいちには脈絡がない。なにかあるようでいて,なにもない。記号は豊富にあるのだが,それがひとつの物語に収斂されそうになると,バチンバチンと切ってしまう。期待をもたせもしないし,なさけ容赦もない,というわけでもない。なんの感情もなく切ってある。それでいて,ちぐはぐな感じがしない。…
…こ,これは劇団どくんごの芝居について ,という錯覚すら覚える。というのは買いかぶりすぎで,むしろ「こうなりたい」とわたし(たち)が思っていることが言葉にされている,ということなんだろう。
ここで描写されているものをもサーカスと言うのなら,ぼくらのステージ(ベビーフードの日々)はサーカスにほかならないし,今後ますますサーカスになっていくだろうと思われる。
…演劇の看板を降ろすつもりは毛頭ないが。
posted by doino at 16:23| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。