2011年02月04日

自主稽古 その2

2B
@「海でーす」。何かの練習。<コーチにダンスを見てもらっている> Dはコーチ役ということになるが,Dはしゃべれないから役者は「聞こえた芝居」をせざるをえず,ちょっと苦しいか。
A「親権問題」。犬のおもちゃ。小さくかわいい。電池でキャンキャン言う。役者の足にまとわりつく姿はネタとしてはおもしろい。おもちゃが最後何か別のものとしてではなく,おもちゃそのものとして扱われるのは不満。かわいいだけにそれとの関わりがもっと欲しくなる。そしてそれをふくらませていけばDとの関係が焦点化しなくなる(気もする)。
B「くわしい方いらっしゃいますか」。客への無茶振り得意なのかも?
C「いいよ」。ていねいな物言いが他の演しものと分けている。肩車。Dが上になるときよりもDに肩車される時の方が面白い。しっくりくる。と健太の指摘。それにつけてもややDが(リアル重量的に)軽いかも。「そうだね」という最後のセリフ,未消化ではある。きちんとしたテキストが欲しくなる。
D「なんで捨てちゃうんだよ。まだ使える」。言う相手が正面でいいはず。どう使えるのか,詳しく知りたい。
E「柔軟指導」。実際には前にやったダンスの一部を指導。おもしろい。Dが「できない」ばかりよりは「そこそこできてる」「そこがいい」「あとここを直したらもっとよくなる」「ここができないのはこういう理由だ」的な専門家風ウンチクが欲しい。指導者自らやってみせるのも悪くない。Dを持ってくるところ,もって帰るところ,再考の余地がある。
※全体に(Cを除いて)人物やDの「大きさ」が均一,等身大であることがある停滞感を持たせる。もっと大きなものとして自らの身体を作ることもできるだろう。前回おばあちゃんはキャラが捉えられているぶん,大きさを獲得していたと思う。仮面をつけて演技するとき,身体の(演者にとっての)大きさが変化するはずだ,と西瓜さんが言っていたっけ。そういえばボートシアターで仮面をかぶった時もそんな感じ。(全知全能のではない)神になるイメージ。キャラを太く強く作ることと仮面を被ることは似ている。

よーこ
ダンジョリズム遊びを軸にした,引率もの。昨年今年の彼女の自主稽古の中でもっともおもしろかった。ダンジョリズムは楽しい(稽古を重ねてもしくじることができるだろうか?)し,たぶん演しものの軸が明瞭なせいで役者が(いままでに比べて)リラックスしているように感じられた。Dとの関係はくっきりしていないが,はっきりさせることは可能だろう。「お前,○○じゃねえな!」とか,集団的なダンスシーンにしていける可能性もとか,いろいろとアイデアが出てくる。なんで横向き?

まほ
@「とめないでったら…いくじなし」。詩的言語,ダンサブルな抽象身体ではなく,ある物語の中の一シーンという「お芝居」的な作りの中で大声や大きなアクションを,という意図。それは理解できるも,意味内容が先行,身体感がついてきてない。Dが何か言い,それに返すスタイルはつらいかも。目線が低くなると立ち姿が生きない。物語の中で人物が縮む。2B同様,身体サイズをもっと大きくすべきだろう。
A「落ちつく」「静かで」「暗くて」。といった台詞の一切は身体感や台詞のトーンで出せるなら(から)要らないだろう。となるとほんのわずかしか語ることはない。それでいい。そのほんのわずかな言葉を発見すること。だが,Dとのすわり姿は印象的だし,「ある相手に向けられた言葉」への指向が出てきてる。
B別れの歌一曲。あるシチュエーションを強く持ち,そこで歌われる歌。××の時に××の歌というのはベタで,それは××を説明してしまうので××をより立体化するのにはマイナスになるかも。よほどいい歌でないと。真逆な歌が今となっては一番痛い歌ではないか。やや調子のずれた歌唱は面白いのだが,作詞作曲のクオリティが低すぎる。反語として歌うにしてもそれに耐えられるものであってほしい。童謡とかも候補になる。Aのシチュエーションでも「歌を一曲歌うとしたら」という課題を立てればまた別の言葉のテンションを持てるはずだ。
@〜Bはそれぞれ昨年の仕事から距離を取りたがっている。だが,さらなる深化・展開,という課題を立ててもいいはずだ。

けんた
@うちわと傘。涼しそう。笑う。低い声。男をそそのかす女。ぼくらの芝居には珍しくアジア的湿度が高い。「××になめられます」は秀逸だろう。「アレ」と言わないのがいい。笑う,として「いかに笑うか」といった芝居としての精緻な取り組みが光る。
Aさわる。抱く。「魚のように黄色い目」。放す。放すための画期が用意されていたのかどうか。距離,言葉の飛ばし,途中までうまくいってる。だが劇場を遠く離れるにしたがってどうしても大味になるのはやむをえないことだ。台詞がもったいない。ここらあたり,どうするか。本人の今回の意図とは別に,マイクを仕込んで遠くでささやく声を大きく増幅してスピーカで流したらどうなる?とか「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」の草原を歌いながら蛇行していく主人公(プラトーノフ)のことを思い出したり,イメージ広がる。テキストとしてたいへんいいのだが,内容的には装置でやろうとしていることに順接しすぎかも。

やっし
ゆっくりすわる。何もしない。音楽欲しい。煙草じゃなくて葉巻,ワインにラジオが欲しいところ。その後遠野物語の一部が語られるが,Dとの何かしらの関わりが展開するとしたらこのとき。去りの馬鹿台詞はいつもながらにスバラシイ。
posted by doino at 21:59| Comment(0) | 注釈 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。