2008年11月08日

東野圭吾どうよ

鹿児島旅行中に観た映画「容疑者Xの献身」が意外におもしろく、原作者東野圭吾の小説を3本立て続けに読んだ。「容疑者Xの献身」「悪意」「同級生」。
どれもそれなりにおもしろい。それなりに。
犯罪トリックの構築やその謎解きは精緻。乾いた文体も割と好き。宮部某よりは百倍いい。でも読後感が何かが不満足、腹にこたえない感じはみっつの小説とも同じだった。
中盤まで事件の核心に迫っていくときにはどきどきする。しかし謎解きの開陳の段になると、どっか白ける。それ以前にどこか正解・・・というか正解のありうる振り幅の予測がついてくる、ということかもしれない。その振り幅の予測を持っていくときにもっともエキサイティングで、実際の謎解きはその振り幅を超えず、ひとつにきちんと筋道を立てて実体化している、という印象。謎解きの局面は何か知らないことが明らかになるというよりも,たくさんの「知ることができるかもしれない候補」の中のひとつが選択されることになる。頭の中の混乱や予感の錯綜が収まり,引き出しにしまわれる。これはある程度テクニカルな問題だと思う。
構成している犯罪自身はそれぞれ痛みを伴っていて、その設定自身は私の好み。にもかかわらず、構想されている痛みの血肉化が不十分でそれが謎解きの際に見えちゃう。
犯人をわからないのなら「理解不能のモンスター」みたいになればじゅうぶんエンタメとして成立すると思う。それをあえて避けてるとすればそれは作者の心意気、もう一歩踏み込もうとする意欲なのかもしれない。しかし結果としては人物の描写よりもトリックと謎解きロジックの精緻さの魅力が勝ってしまう。あるいはその魅力におぼれているようにも見える。
(この感想はおそらく,いろんな位相のことをごちゃごちゃに書いてるなぁ。ごめんねー。って誰に?)
「容疑者Xの献身」を映画化したのは大正解だったと思う。この物語が映画で立ち上がったのは,おそらく犯人役堤真一の強い身体感に負っていると思う。
ついでながら,柴咲コウの位置の役は小説にはないし,映画でも特に必要があるとも思えないけど,かといって邪魔かというとさほどではない。嫌みでないようにうまく制御されてると思う。
posted by doino at 16:15| 埼玉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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