2005年12月21日

ひと夏の経験

虎の穴ご存知山口百恵だが,気になって調べたら誰あろう「Go!Go!7188」がカバー(→)していた。

まず,タイトルがいいね。旅と重ねやすいということもある。
「それ」を奉げることによって自分が決定的に「汚れ」「壊れ」る。「駄目な人間」になってしまう。しかもそれは回復不能らしいのだ。それでもなお「愛は尊い」と言いつつそれを奉げようとするわたしのパトスがここではいわば「売り」となっている。
強い恋愛感情は宗教的帰依と似ている。ここで「愛」と呼ばれているものはほとんど「神」だ。何かに帰依することがすなわち駄目な人間になることになるのかどうかはわたしにはわからないが,世界を見るひとつのフィルタを唯一のものとして選びとる以上,ときにはそういうことも起こる。
わたしの一番大切な「純真」を奉げる「神」。天皇かアッラーかキリストか「人民」か。あるいは金か。(キリストといえば小室哲哉には「ただひとりのあなたに出会い救われる」,つまりキリスト教的恋愛ソングが多い。)
また,原意では社会的に「駄目な人間」の烙印を押されることと自らが「汚れた」と感じることは区別されないでいる。が,「汚れ」=社会的には駄目な人間とみなされても自らの体感は清新なままでいられる場合もあるし,逆に社会的にはマットウとみなされても自らが「汚れ」てしまったと感じる場合もある。この違いによって歌の色合いはまるきり違うものになる。

誰でももっている純真さを奉げさせ,奉げさせることで汚し壊れさせ泣かせ,そうすることで自らの命脈を保っていくものがある。
しかし,
一般に,行動者は極端に単純化された観念に献身するものだが、その信奉する観念が単一純粋であるゆえに,彼には全く世界が見えていないと速断するのは短慮である。なるほど机の前に坐って,じっと世界を見廻し,観念をもてあそんでいる者には,世界はより複雑に見える。しかしその場合,彼に見えている世界は,単なる客観的対象にすぎない。むしろ世界は,行動することによって現実(リアル)となる。現実の実在感は,単一の観念を信奉する者の試行錯誤の中にしか浮かびあがらないのである。(『内ゲバの論理―テロリズムとは何か』埴谷雄高
これもまた真実だ。
posted by doino at 20:30| 埼玉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
椎名林檎ってすごく器用な人なんだな…と聞き流しておりましたよ。てへっ。

仙台、大阪は天気かんばしくない…と聞いてますので、お気をつけて。
先週の「前橋」では、見ている最中がくがく来ましたよ。北関東さむいっ。

私もサーカス本正月以降自主読書しておきます。
Posted by 角田 at 2005年12月22日 15:10
天気はまじで心配してます。
仙台は朝から行くので大丈夫だと思うのですが,大阪への移動は夜っぴて走ることになるので…。

サーカス本読んでいただけたら嬉しいです。今読み直しているところです。
Posted by doino at 2005年12月22日 18:44
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