2019/12/05(4)17:45 | 日々のこと

しかしあれだね

次の旅ってころにはもう60歳超えてる?じゃないか。でその後十年いうたら70歳! まぢでか。
自分の夢見がちな進行にまじで笑うなぁ。不老不死かよ。
いや、だからこそスタイル変えなきゃやってけないというのはそれはもちろん動機ではあるんだけど、何かを変えるということの体力消耗については度外視されているという。。。
あ、そこはいいんだみたいな。

2019/12/14(6)14:08 | 日々のこと

PCの環境がようやく

旅前からPCの調子がいまひとつだった。オンボードのUSBが反応しないとか、メモリエラーが週一くらいで起こるとか。なので旅中に元メンバーのTからお古のPC(といってもTはSEだから高機能)をもらえることになってた。
旅から帰って旧PCに電源を入れてみるも、完全に動かない。
数日待ってTからPCがとどき、10日くらいかかってようやく使いやすい環境が整った。
なによりAdobeCS6が動かないと話にならないので、それがWin10で動くかどうかが最大の懸念事項だったが杞憂だった。あっさりインストール(&クラック)できた。
Win10へのインストールで意外にたいへんだったのが、VMWare、iTunes、Evernote、GoogleIMEだった。しかしながらどれもなんとかインストールされ、現状問題なく動いている。iTunesは実行ファイルを解凍して現れたいくつかのインストール実行ファイルそれぞれを順番にインストールしていく、、、という聞いたことのないようなヤクザな方法で(しかしそれでやっと)インストールできてそして現状問題なく動いている。
PC周りの知恵と勇気の話は積もるものがあるが、まぁいいや。
ひとつだけ書いておこうかな。
FreeFileSyncというフォルダ同期ソフトがあって、
https://freefilesync.org/
これは素晴らしい。。。

2019/12/14(6)20:53 | 観劇

未知座は素晴らしかった

未知座って自分たちの演劇における問題意識とかなーり近いところにいるんだなぁと、今回あらためて感じ入った次第。
シーンごとの立ち上げ、そしてそれを芝居として統合していく方法。

だが、、、

未知座の作り出す芝居は最終的にはゴドー待ちなのではないのか、という疑問はある。
「異邦人」がBGでかかるのはもちろん偶然ではない。異邦人=外部の者=ゴドーの謂であることは間違いない。
一人がいるところに二人が旅姿でやってくる。男一人=定住者であり、女二人=異邦人である。
芝居の最後には、立場は逆転し男一人は去り、女二人は居続ける。
のかな。そう見えなくもない程度なんだけど。
「そう見えなくもない程度」であることがここでの最大の問題で、決定的な転換点、後戻りのきかない変革の時こそがゴドーのことなのであって、その絶対性を持てない以上それは再度再々度再々々度…の(ウラジミールとエストラゴンの)「演劇ごっこ」の網の目に絡み取られていくことになるからだ。そうなれば無限の時間としてのゴドー待ちを補強しすなわち「絶望」という名の怠惰の勝利を裏打ちすることにしかならないだろう。
津野海太郎『門の向こうの劇場』。。。
たとえば私達の「のは」と呼んでいる即興のシーンなども、
「いろいろあった。けれども結局残るのは人と人の間の遊びにも似たやりとりでしかないではないか。
これまであった一見『劇的』なあれこれもついぞ何かを根源的に変えるものではありえなかった。あるのは毎日の暇つぶしとしてのおしゃべりと何かを待ち続けるその焦燥だけなんだ」
という事にもなるだろう。
そしてそれは半分は本当のことだ。
だが振り返ってみる。絶対的な変革のとき、革命の時間がやってくることを待ち望むことはできる。それを招こうと努力することもね。でも「その時間を生きること」、いや「その時間を生き続けること」って字句通りのことが果たして可能なのか?
変革の時を生き続けるということ、ぶっちゃけそれ自身が矛盾である。もとより存立不能なことを「嗚呼ありえない」と嘆くことになんの価値があるのか。無窮動の革命なんてそれを目指す不断の行為の積み重ねの中でしかあり得るわけないじゃん?
半分は本当で半分は嘘。価値評価に違いがあるのだ。
未知座の芝居が作り出す会話にはペシミズムが強く漂っている。ただの遊びどころか相互の権力劇、支配と被支配の循環、殺し傷つけあう関係しかないじゃないか、という。このペシミズムこそがゴドーの本質、その牢獄なのではないか。そのような(おそらくは近代の)牢獄に屈しているように見える、ということなんだと今回気づいたんだ。
対しておそらく私達の劇中の会話にはむしろ希望が見えるはずだ。見えるはず?(笑) 少なくともやっている側は希望を見ようと努力しているのだ。そしてそれは、ペシミズムに毒されている者には脳天気なタワゴトに見えるのではないだろうか。
長田弘の詩の一句
死の悪意に抗ってどうしても生きてゆくんだ
生きること、それがぼくたちのつとめだ。
(略)
みずからの
重みのかかるほうへすこしずつ足を踏み出してゆき
ついに行為そのものになっていく。
それがどんなにぶざまなことであるにしろ。(「愛について」)
そのような意味で日々の時間を愛すること、いや愛するようにつとめることこそに意味がある。それがどんなにぶざまなことであるにしろ、ね。

2019/12/15(7)12:57 | 日々のこと

今日から怒涛の

超多忙な一週間となるであろう。